【永久保存版】宅急便はどのように普及したのか(前編)

2018年09月08日

今では当たり前のものとなっているクロネコヤマトの「宅急便」。

「個人向け宅配」という巨大なネットワークをどのようにして作ってきたのか。

その戦略を紐解くと、キラーポイントとなった「翌日配送」というコンセプトや、それを実現するためのネットワーク、そして数値戦略などが明らかになりました。

現代は「ネットワーク効果」の重要性について触れられることが多いですが、早くからその本質を見抜いて作られたのが「宅急便」事業です。

前編では、小倉康臣氏によるヤマト運輸の創業から、戦後に経営難に陥るところまでについてまとめたいと思います。

日本一のトラック会社を作った創業者・小倉康臣

創業者の小倉康臣氏は1889年、東京・京橋生まれ。

25歳で八百屋を起業したのち、第一次世界大戦後に「自動車時代が到来する」という確信を持つようになります。

1919年、日本全国のトラック台数はわずか204台しかありませんでした。

そんな時代にトラック4台を保有する銀座の運送会社としてスタートしたのが「大和運輸」です。

15名の社員(うち乗務員8名)とともに当初から株式会社として発足し、1923年には慶応大卒の新卒社員を採用するなど、当時としては先進的な経営でした。

1924年には運転手に制服を着用させるというアイデアも発案します。

警察官と同じ型の帽子、襟付きの制服と乗馬ズボンというスタイルにより、会社の信用を大きく高めました。

1927年には康臣氏がロンドンで開催された「万国自動車運輸会議」に参加し、会議後にロンドンの運輸会社であるカーターパターソン社を視察しました。

同社は、ロンドンを中心にバーミンガムやグラスゴーなど、東西150マイルもの地域でトラック定期便を運行していました。

「集荷」「輸送」「配達」を一貫して実現するネットワークを構築し、ドアツードアでのサービスを実現していました。

彼らのシステムに感銘を受けた康臣氏は、帰国して2年後にこの方式を日本で実現します。

東京〜小田原間で定期便によるトラック輸送を開始し、八王子、高崎、宇都宮、千葉など徐々に路線を拡張。

1935年には関東中をカバーする物流ネットワークを完成させ、車両151台、従業員500名を有するトラック運送会社に成長。

創業者である康臣氏のビジョンにより、自他共に認める「日本一のトラック会社」を短い期間で作り上げたのです。


戦後、長距離輸送への波に乗り遅れる

ところが、1941年に太平洋戦争がはじまるとガソリンなどの資材が日本全国で足りなくなり、50キロを超えるトラック輸送は禁止されました。

トラック運送業者は軍需輸送に注力せざるを得なくなり、ヤマト運輸も路線の縮小を余儀なくされました。


終戦とともに業務を再開したヤマト運輸は、進駐軍の仕事や通運事業にも手を広げます。

国鉄の貨物駅が開放され、駅と荷主の間の集荷や配達、貨車への積み下ろしなど(戦時中は日本通運の独占事業だった)を請け負ったのです。


戦後のトラック運送業界では大きな変化が訪れます。

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