【特集】ルノーと日産はどんな経緯をたどったか?ルノー創業からゴーン就任、日産との提携までをおさらい

2018年11月21日

巷ではカルロス・ゴーン氏がGoneしてしまったと話題です。

カルロス・ゴーン風とともに去りぬ Shutterstockより)

憶測も絡んで根が深そうにも見えますが、Stockclipでは既に分かっている事実(少なくとも公表されている情報)について整理したいと思います。

自動車が日本経済において重要な輸出産業であることは間違いなく、今回の事件には単なるダジャレ以上の意味があります。

今回のシリーズでは、2社の歴史と提携からの経緯を整理することで、現在の状況についてより長いスパンで理解していきましょう。


戦火の中にあって国有化をまぬがれなかった「ルノー」

ルノーの歴史は1898年のクリスマスイブに始まりました。

当時21歳だったルイ・ルノーは、三輪車を改造して「モンマルトル(映画『アメリ』で有名)」の坂道を苦もなく登って見せたそうです。

モンマルトルの坂

彼はダイレクト・ドライブ・トランスミッションを発明して特許を獲得。世界中の自動車に採用されました。

翌年10月、2人の兄たちとともにルノー・フレール社を設立すると、レースに参加しては勝利を収め、注目を高めます。

やがてパリ市のタクシーを大量に受注し、これをきっかけに手作り生産から大量生産体制へと本格的にシフト。

第一次世界大戦(1914年〜1918年)ではルノーのタクシー1,200台が対ドイツ戦で活躍し、「マルヌのタクシー」としてその名を知られています。

以来、ルノーはフランス軍との関係が強くなり、戦車や航空エンジン、航空機まで作るフランス軍向けサプライヤーとして発展。

ところが、第二次世界大戦(1939年〜1945年)でフランスがドイツに降伏(1940年)すると、ルノーはドイツ軍の下におかれることに。

その結果、フランス解放(1944年)後にはルノーの資産は国に没収され、1945年にド・ゴール将軍の行政命令によって国有化

「ルノー公団」として再スタートを切るのでした。


1990年には株式会社化され、1996年には完全に民営化。

1999年に日本の日産自動車との提携を発表し、世界第4位の自動車メーカーグループとなりました。

後述しますが、カルロス・ゴーン氏がルノーに入社したのは、民営化したばかりの1996年です。

鮎川義介が工業系財閥「日産コンツェルン」の創始者

日産自動車の始まりもルノーと同じ1900年前後です。

日産コンツェルンの創始者である鮎川義介は1880年に長州藩の士族として誕生。

10代前半に(キリスト教の)洗礼を受けると、熱心に日曜のミサに通って英語や漢籍を学びます。

大叔父の井上馨から「エンジニアになれ」と言われ、東京帝国大学工学部を卒業すると、(井上馨が勧めた)三井財閥入りを蹴って芝浦製作所(現・東芝)に入社。

ところが鮎川は「日本の工業は西洋の模倣でしかない」と、日本の工業の限界に気づきます。

そこでアメリカに渡って田舎町の「見習工」として働き始め、鋳物技術を必死で身につけたそうです。

帰国後の1910年、30歳のときに「戸畑鋳物(のちの日立金属)」を設立。

やがて自動車部品も製造するようになった戸畑鋳物は、1931年にダット自動車製造を傘下に入れて自動車製造へと進出。

1933年には「自動車製造(株)」としてスピンアウトし、翌年に「日産自動車」と改名されました。

ブラジルに生まれ、レバノンで育ち、フランスの名門大学に進学したカルロス・ゴーン

今回の騒動の中心にいるカルロス・ゴーン氏は、1954年にブラジルのポルトベーリョで生まれました。

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